大阪ダブル選・衆院大阪12区補選など大阪7重選挙の結果について(前編)

●大阪7重選挙の結果について――市民共同総括(試案)

 

 2019年4月の統一地方選において、大阪府域では、大阪府知事選挙、大阪市長選挙、府会議員選挙、政令指定都市の大阪・堺市会議員選挙、衆院大阪12区補欠選挙、市町長選挙、市町議員選挙という七重もの選挙が輻輳(ふくそう)して行われた。

 その結果、全体として「維新大勝」とでもいえるような一連の結果が出た。

私は、橋下徹・元府知事の登場以来11年以上に及んだ維新の政治に強い危機感を抱いてきた大阪市民の一人として、いずれかの論者や市民団体または政党から、きちんとした分析と教訓が導き出されることを期待していた。しかし、どうもまとまったものは見当たらない。

そこで、一市民としての限られた情報を駆使してではあるが、総括の試案を提起し、市民間の議論に供したいと思う。なおこの試案は第一次案とでもいうべきもので、読者諸氏からのご指摘を受けて版を重ねることができれば幸いである。

 

●4月7日投票の前半戦―ダブル選と府会・政令市会議員選挙

 大阪知事・市長をめぐるダブル選については、知事辞職を表明した大阪維新の会代表の松井一郎前府知事が市長に、市長辞職を表明した同政調会長の吉村洋文前市長が府知事に入れ替え当選するという結果に終わった。

結果の詳細は以下のとおりである。

 

大阪市長選 有権者2,189,852  投票率52.70%

当 松井一郎 維新 新 55歳 前大阪府知事 660,81958.1%

柳本 顕 無所 新 45歳 推薦:自民・公明府本部 元市議 476,35141.9%

 

大阪府知事選 有権者7,213,730  投票率49.49%

当 吉村洋文 維新 新 43歳 前大阪市長 2,266,10364.4%

小西禎一 無所 新 64歳 推薦:自民・公明府本部 元府副知事1,254,20035.6%

 

公職に就くものが、任期途中で辞職を表明し、立場を交換するために出馬するという行為自体が、私には極めて無責任で異常な行為にしか見えないが、残念ながら府民・市民には認められたという形である。

異常と言えば、その大義も異常であった。報道を見る限りでは、松井・吉村両氏が、自らの辞職の表明によってダブル選を前倒しした大義は、「都構想」について信を問うことにあった。

 ところが、実際に、「都構想」の実現に向けた住民投票の実施のために、その時点で必要だったのは、すでに維新が確保している知事・市長の入れ替えではなく、大阪府議会、大阪市議会における過半数だったのだ。

そしてそのための府市両議員選挙は、予め4月7日に予定されていたのである。ならばなぜ彼らは公職を放り出してまでダブル選を前倒しなければならなかったのか、まったく筋が通っていないのは明らかであった。

では、なぜ彼らは首長選を引き起こしたのか。松井氏自身が出馬会見で語っているように府議選・市議選を「盛り上げ」るために他ならない。言いかえれば自党の議席を最大化するのが主要な目的だったといっても差し支えない。その結果、実際に維新は、この選挙でダブル選と議員選の相乗効果を発揮している。府議会では過半数を獲得したほか、市議会でも過半数に最接近するに至っている。

そして、通常の出直し選であれば延びない首長任期をポストの入れ替えによって脱法的にリセットし、現職な有利な時期に選挙戦を仕掛けることを禁じた規定をすり抜けて、自己に有利な状況で新たに4年間の追加任期を得たのである。

要するに党利党略である。卑劣漢、ここに極まれりといわざるをえない。

 通常ならこの入れ替えダブル選という公職を弄ぶような卑劣な奇策を行ったという一事をもってしても、維新には厳しい審判こそがふさわしい。ところが、そうはならなかった。いったいなぜなのだろうか。

 

では、彼らの勝因についても分析を進めよう。

 一つは、この奇策そのものの効果である。マスコミでも、「都構想」の是非が、最大の争点として報じられるなど、選挙戦全体が、維新を中心とした劇場型政治に巻き込まれていった。通常なら、府議選・市議選の各候補者や各党の動向にもっと光があたったはずなのに、「党の存亡と政治生命をかけた松井・吉村」という別の主役の登場により、そうはならなかったのである。選挙戦におけるテレビ報道の目玉は、告示まで現職を続けることになった両氏の動向や、頻繁に行われた市長・知事候補合計4人のテレビ討論会であった。

これについて、もし討論後に視聴者に与える印象の善し悪しだけ考えるのであれば、維新の現職のほうが有利に決まっていた。維新側は十分に時間をかけて打ちだしの角度を精査してきたに違いない。テレビ討論の中には、維新候補だけが、あらかじめ自前で用意していたパネルを使って説明をしていた場面もあったと記憶する。前々から周到に戦略と戦術を練り、府市行政機構と党機構をフルに使って、自分達がアピールする「実績」をまとめていたことをうかがわせる宣伝物が、紙やネットでたちどころに現れた。

対する小西禎一知事候補、柳本顕市長候補がどれくらい不利だったか考えてみよう。まず維新の2人の入れ替え出馬会見で選挙が確定したのが3月8日。4月7日の投票まですでに1カ月を切っていた。自民党大阪府連から打診を受けた小西氏が立候補を表明したのが3月11日、柳本氏は3月14日である。柳本氏がなんとか第一次公約のようなものを発表できたのは3月19日。中央区北浜に両氏の合同事務所が設置され、事務所開きが行われたのはなんと知事選が告示された3月21日の朝だった。出陣式を兼ねていたようだが、これだけの大型選挙で主要候補が告示日に事務所開きをした例など私は聞いたことがない。確認はできていないが、この様子では、ビラなども、とくに柳本氏にあっては告示前には出せなかったのではないか。

 維新の政治を乗り越える上で、両氏が府市民の民意の集約点になりうる人物であることは、私もネット情報などから、十分にうかがい知ることができた。だが、具体的に何を訴えているのか、実際に彼らの主張を聞きに行こうと思ったときに、はたと困った。

応援に行こうにも、演説のスケジュールがわからないのだ。もう選挙ははじまっているにもかかわらず、である。一方で維新陣営は、平素から行っている街頭演説の告知や動画のアップをさらに強化し始めていた。柳本・小西陣営、とくに出馬がぎりぎりになった柳本陣営からようやくSNSなどで詳細な日程がわかってきたのは3月24日の市長選告示後であったと記憶する。柳本氏の個人演説会も3月27日にようやく始まったが、維新候補となる2人は、何カ月も前から事実上の選挙演説会を繰り返していたのではなかったのか。維新陣営は、ただでさえ知事や市長としての毎日のように行っているぶら下がりで好きなだけ報道陣にメッセージを伝えられる。しかも大阪ではなぜかそれが無批判に垂れ流されがちなのだ。現職2氏の知名度も考えれば、このことは、まったく無名ともいえる段階からのスタートを切った知事候補の小西氏には、かなり不利に働いたことは間違いない。

「そうは言っても維新が出直し選や入れ替え選をしかけることは何カ月も前からわかっていたのではないか」という声もある。しかし、それは強い可能性として示唆されていただけなのである。松井・吉村組にとっては、まさに表明前日であれ、一時間前であれ、やるかやらないか、出直し選にするか、入れ替え選にするか、誰を出すのかは、世論と相手陣営の状況を見て、いつでも変更できる作戦だったのである。本当にあるか、いつあるか、誰とたたかうかもわからない選挙のために、だれがあらかじめ自分の人生をかけられるだろうか。

各党にとっても、自分たちの議員選挙もある中で、あるかわからない選挙のために、どれだけの体制がとれるというのだろうか。維持費だけで多額の費用を要する選挙事務所の開設という一事をとってみても、仮にダブル選挙発生が予想される2カ月前に候補者と事務所と構えても、それは2カ月後には行われないのかもしれないのである。

 

ところでこの選挙において維新はどんな主張をしたのだろうか。

私の耳に残った範囲でいえば、メインは「都構想」ではない。「都構想」については、廃止の対象となる肝心の大阪市の市長選に立候補している松井氏が3月24日の市長選告示第一声で一言もふれなかったと言われている。告示の前には「都構想は大阪市がなくなるという話ではない」ともいっていたというのだからあいた口がふさがらない。都構想とは、「大阪市をなくし、特別区を設置」(大阪市ホームページ)するものに他ならない。それは、大阪市を廃止し、その権限・財源の一部を府に献上するとともに、旧市域をまた別の自治体である複数の特別区へと分割・再編するものである。大阪における特別区は、自主財源が極めて乏しい、府からの補助金に依存する極めていびつな自治体となることはすで府市の公表資料から明らかである。また、あらためて国会で特別の立法措置が取られない限り、名称も「大阪都にはならず、「大阪府のままだ。「都にはならない都構想」といわれるゆえんである。要するに「大阪市廃止・分割構想」「大阪(特別)区構想」とでも言うべきものだ。ところが「大阪都構想」という言葉には、その実現で、あたかもこの大阪に、日本の首都である東京都や東京23区のような繁栄がもたらされるかのような誤った印象を与える効果がある。それゆえに維新も、「都構想」という言葉を、その実際の内容ではなく、そうした幻想をもたせる範囲内では使っていたと思われる。しかしやはり、メインはそこではない。

彼らは、反維新陣営をできるだけ「都構想」の論戦に縛りつけながら、自分たちは、あらかじめ周到なリサーチで導き出していた市民ウケするメッセージを発信し続けていたのである。

 

では、維新が選挙戦で実際に多用した主張何だったのか。それは「維新の改革で大阪は良くなった」であり「大阪の成長を止めるな」であり、「10年前の大阪に戻すな」であった。さらにいえば、相手陣営に対する「自民から共産までの野合・談合だ」という非難であった。結論からいえば、これらの主張は、非常にわかりやすく、府民によく浸透し、大きな勝因の一つとなったといえる。これこそが維新が、前々からマーケティング的な府民リサーチを繰り返し、練りに練ったキャッチコピーだったのではないかと私には思える。問題は、その中身が驚くほどでたらめだったことである。以下に基本的視点だけ簡単に説明する。

 

第一に「維新の改革で大阪は良くなった」というのは本当かということである。あげられていたのは、この間、民間主導の都市開発などで街が東京的な意味で「きれい」になった事例などで維新との関係が必ずしもはっきりしないものも多かった。また、外国人訪日客の急増などは、どうみても全国的な傾向であろう。街頭犯罪やひったくりの減少も同じだ。しかも、「維新改革で減少!」と誇る「街頭犯罪」や「ひったくり」は2018年時点でも全都道府県のうちワースト1なのだから、なにをかいわんやである。大阪府は、維新行政のもとで、すでに失業率もワースト2位となっているが、改善のスピードではワースト1の沖縄に抜かれている。彼らは今後、大阪の失業率がワースト1になったとしても、いちおうは改善の方向に進んでいることをもって「維新の改革の成果だ」と誇るのだろうか。正気の沙汰とは思えない。

「こども・教育の予算」を「7年で8倍」にしたとのグラフが掲載されたビラも作成されていたようだが、これは、こども教育関連予算のうち、市長の肝入り施策に使った予算の合計の伸び率を示しただけである。もともと「こども・教育の予算」全体であるかのように定義を偽っている積算額の上に、単位を%ではなく、‰(パーミル)としてグラフの伸びを大きくするなど、有権者に錯覚を起こさせることを明確に意識しいていたものといわざるをえない。

何よりも、最大の問題は、「維新の改革」によって、どれだけ「大阪が悪くなった」かが、すっぽり抜け落ちていることである。

たとえばまさにこの教育分野である。いま、とくに大阪市では、維新の行き当たりばったりの「教育改革」の影響で、教育現場が混乱・疲弊している。しかも、悪評は全国に及んで教員が集まらなくなっている。教育への不当な政治的介入による失敗だ。学校現場にとってはまったく無意味な公募校長の強要がその最たるものである。テスト中心の競争教育のために、いまや中学校の不登校が20人に1人に達している。競争の目的であったはずの学力もかんばしくはない。大阪府レベルでは虐待件数もワースト1続きである。

小西氏が、その根本原因を、こどもの貧困つまり家庭の貧困に見定め、貧困の連鎖を断ち切るためにまずは学校給食の無償化を訴えたことや、柳本氏が、現在の大阪市における教育現場について上記のような認識を示し、校長公募制を廃止し、不足している教員を増やすなど立て直しに力を入れたいと表明していたのは、しごくまっとうな主張だったといえよう。

また、柳本氏は、大阪市の月額7927円と日本一高い介護保険料の問題を取り上げ、「引き下げの方向を探っていかなければならない」と表明したことや、小西氏が、維新府政で商工関係予算が大幅に減らされたことにふれ、「こんなことでは大阪の本来持つ強みである中小企業・商店街の振興はできない」と強調していたのは大事な指摘であった。

ただ、維新の大量の「良くなった」宣伝の中で、現状に対する否定的な声は、かき消されたという感がある。現場からの具体的な告発は、もっとほりさげられるべきだったと考える。なにしろ、維新行政の下で、どれだけの市民施策や福祉が削られ、統廃合の名で学校や病院がつぶされ、バスなどの交通ネットワークがズタズタにされ、地域の取り組みが困難になってきたかは、地域に住む住民が常日頃、実感している話だからである。市民としても、それらの動きに対抗するために、自らに関する施策の動向を系統的に監視し、その結果を市民に発信し、行政に改善を求めていく運動のいっそうの発展が求められると感じている。

 

第二に「大阪の成長を止めるな」である。そもそも大阪では1人あたり府民所得が全国と比べても悪化しているのに維新が何をもって成長としているのかは定かではない。やはりここでも訪日客の増加や全国トップクラスのホテルの稼働率の話をしているのだろうか。ただ、一大阪府民としても、大阪の発展しているところについては、ポジティブに見つめたいものである。彼らのメッセージはそこをくすぐるものでもあった。しかも、これだけの大都市ともなれば、首長は(たとえ維新でなかったとしても)、スポットライトの当て方次第でいくらでもリニューアルしたエリアをあげ、自分の実績として大々的に誇ることができる。ただ、実際には衰退した地域も存在しており、そうした地域の実態をも直視し、全体としての街の発展がこれでよかったのかと熟慮する、首長としてのバランス感覚こそ求められるのではないだろうか。

「大阪の成長を止めるな」という主張に関しては、「止めようとしている者たちがいる」という主張が隠されているという点にも注意が必要であった。つまりそれは、「既得権をもち、自己利益のみに走る、改革を止めようとする者たち」なのである。しかし、だれが大阪の成長を止めようというのだろうか。ただ、万博に乗じた野放図な開発で巨額の負担が費やされたり、最初から失敗が目に見えている都構想やカジノに反対する人がいるというだけの話なのだ。

それらについてのまじめな議論をかき消すようなこの「大阪の成長を止めるな」というメッセージは今回の選挙戦の中でも最強のパワーワードのひとつであったといえよう。

 

第三に、「10年前の大阪に戻すな」と言う主張である。維新は、大阪は過去に府と市がいがみ合い、競い合って同じような高さの巨大ビル(旧WTCビルと「りんくうゲートタワービル」)を建てて税金を浪費したと主張した。いまは維新で府と市が協力しているからいいが、こんな過去に戻してはならないというわけである。

しかし、ここにも大きなごまかしがある。これらのビルを建てたのはいつのことであろうか。10年前どころか1990年代、前世紀の話である。大阪府市では、その当時の箱モノ開発の後遺症に苦しみ、橋下氏の登場前から営々と借金を減らすための財政努力が続けられていたのが実態である。

しかも維新は、この二つのビルの無駄が起きた原因を府と市という二つの巨大権力の存在に求め、府も当事者なのに、なぜか市の廃止だけを一方的に主張する。しかし、巨大ビルの問題は「制度ではなく政策による失敗」(柳本氏)にすぎないのだ。

いずれにせよ「10年前の大阪に戻すな」というワードも強力だった。どんな大都市でも10年もすれば成長や改善があるのが当然だが、彼らは、いまの大阪を、他の同規模都市とではなく、過去の大阪と比べるよう世論を誘導したのである。しかもそれは、10年前に限らず、過去の大阪の一番悪いところ、一番悪かった部分のみと比較して、「今のほうがまし」とばかりに自分たちの存在を浮上させる作戦に出たのである。

そしていま、自分たち自身が、彼らが批判している過去の壮大な無駄遣いにもまさるともおとらない、都構想をはじめとする壮大な破綻と無駄遣いへと突き進むというまったく矛盾した行動をとっているのである。カジノと万博を一体で誘致する人工島・夢洲については、先だって市が発表した、土地造成や地下鉄延伸などのインフラ整備の総事業費だけにしぼっても今後7年間で950億円規模に上る。今後この負担がどれだけ膨張し、誰にどのようにつけ回しされるのだろうか。また、大阪メトロは、新しく「夢洲駅」(仮称)を整備し、高さ250メートル超のタワービルを総事業費1000億円超の規模で建設するとの構想を示している。イメージ画は、バブル期以上の無謀さを思わせるバベルの塔を彷彿とさせるような外観だ。これこそが現代のWTCビルそのものではないのか。私にはそう思えるのである。

 

第四は、「相手陣営は、自民から共産までの野合・談合」という維新によるネガティブキャンペーンである。選挙戦において、もっとも効果的だったのがこれであったと思われる。

 今回、維新の対抗馬となった小西・柳本両氏は、自民党府連が擁立し、無所属で立候補。自民党公明党府本部、連合大阪が推薦し、立憲民主党府連、共産党などが自主支援にまわった。共産党は「『都』構想ストップ、維新政治を終わらせる」立場から自主的に支援すると表明していた。

 大阪市民にとっては、自らの自治体である大阪市を廃止し自治を縮小させる構想(都構想)を掲げている候補を相手にするわけだから、それを否定する側が一致してはねのけるのは当然といえば当然ともいえよう。また、大阪市の次は周辺市廃止にまで及ぶ都構想や、焼き畑的な「場当たり改革」を続ける維新政治からの転換は、大阪府民とっても他人事ではないはずである。

 簡単に言えは、大阪市つぶしという究極の自治破壊や、ウソとデタラメの維新政治に対しては、ある程度の政策の違いはわきに置いてでも、一致してたたかうのは当然だという声がかねてから大阪にはあり、私自身もそう思ってきた。

 ところが維新は、そこを今回も「野合・談合」と徹底して批判してきた。「野合・談合」といっても、柳本・小西の両氏は、自民党公明党府本部・連合大阪から推薦されているだけであって、ほかは公然と自主支援を表明した上で、勝手に支援しているだけなのだが、維新はそこをいかにも「既得権益を守るために闇でつながっているかのように描きだしたのである。

 統一地方選の議員選という党派選挙をたたかっている時期でもあり、国会も予算審議の大詰めを迎えていたことから、「国会や議員選では対立しているのに、こっちでは手を組んでいる。おかしい。維新憎し、既得権だけが目的だ」という維新の言説が流布しやすかった状況にあったことは否めない。

 

 さてここからは、小西・柳本陣営に内在する敗因の分析に移る。問題はまさにこの「野合談合」批判への対応に象徴的に表れたとみるべきである。維新陣営による「野合談合」批判は、突き詰めれば、小西・柳本両氏は「共産党に応援されている」という、ただ、それだけの非難にすぎない。維新はまず、それがなぜ悪いのかを本来証明すべきだと思うのだが、そこの理屈は意外なほど浅い。

この批判に対して、私の見た範囲では、小西・柳本の両候補自身は、以下のような説明を行っていた。自らは無所属で政党で言えば自公の推薦だということ、首長は府民・市民全体の代表であり、自らもそれを目指していること、あらゆる府民・市民の意見に耳を傾けて住民の立場で行政をすすめる決意であると。さらに柳本氏は、自身は何か特定の政党に恩返しをしなければいけない立場にもないということ、現場主義でさまざまな市民と対話しその声に耳を傾けていきたいということ、維新選出議員であれ誰であれ住民の代表として選ばれた議会とも真摯に向き合い、良いことは良い悪いことは悪いと是々非々で対応していきたいと、こういうことを説明していたと思う。これはとてもまっとうな説明だと私は思う。

欲を言えば、「あなた方維新の政治があまりにも酷いから、自公以外の政党――私どもとは国政では立場の違う立憲民主党共産党でさえも自主的に支援するようなことになっており、そればかりか、真実を知った市民全体が応援してくれることになっているのではないか」ぐらいのことは言ってもよかったと思うが、それなりに説明はしていたと思う。

 ただ、ここで思うのは、この大阪に横行している「共産党」という名を出しさえすれば問答無用で悪いことのように言えるという風潮について、もう少し共産党本体からの打ち返しもあってよかったのではないかということである。なぜそう思ったかというと、選挙中のあるテレビ番組での討論で、小西候補が学校給食の無償化を主張したさい、維新の吉村氏が「それは共産党の主張だ」というわけのわからない反論をしていたからだ。いくらなんでも、これはアウトだろう。各党で重なっている政策などいくらでもある。むしろ首長なら議会政治を通じた政策の練り上げや説得によって議案の全会一致を目指すべきではないのか。吉村氏は、首長の資質に欠けているといわざるをえない。

だいいち日本の共産党は、旧ソ連や中国とはまったく別の考え方をもった、市民が苛立つぐらいの議会制民主主義の伝統擁護派だ。ある意味では、立憲主義を含む自由民主主義的な価値を誰よりも守ろうとする保守政党でもある。その一方で、1%より99%のための政治への転換、自由権社会権的なものの拡張を目指す改革政党でもある。彼らが、国民の合意次第では将来目指すとしている社会主義も、一般にイメージされている既存の社会主義との定義の違いを見るべきである。そこで目指されているのは、現代の資本主義より人間的な、市場経済を含む混合経済であり、複数政党制や言論の自由はもちろん私有財産も否定されていないどころか保障するとしている。

維新の足立康史議員は、日本の共産党は「暴力革命の方針」などといっているが、どう考えても違うだろう。「共産党はいまも政府による破防法の調査対象団体」とも指摘しているが、だとしたら、そのこと自体が歴代自民党政権による恐るべき権力の乱用だと思わないのだろうか。こういう議員の跳梁跋扈は、何かいいことをいうと「共産党だ」とレッテルをはられて意見が切り捨てられるという恐怖政治や、言論の委縮にもつながっていく。共産党も機関紙では、いろいろ反論はしているようだが、市民に届くような形での、この点への反論も弱かったのではないか。

 共産党は、維新からの「自民と共産が野合している」との攻撃に対して、「維新のデタラメな政治を終わらせるために大阪ダブル選では無所属の柳本氏と小西氏を自主的に応援しているだけだ」「自民党から頼まれたわけでもないし、見返りを求めているわけでもない」「両氏の公約で賛同できる点もあるが、相違点についての論戦は、議会できっちりとたたかわせていく」とはっきり言うべきであった。

「対立する思想の自由」や「少数意見の尊重」ということについて真剣に考えたことがない在阪ワイドショーの影響もあろうかと思うが、いま大阪では、他地域ではあまり見られないほど、特定の人たちの考えを頭からバカにするような態度がはびこっている。しかし、それでは、大都市としての寛容と自由という長所を自ら失うだけではなく、今後の世界的な変化にもついていけなくなっていくのではないだろうか。さらには、地域の行政にとって大事な視点を見落とす可能性が高いといわざるをえないのだ。

 ところが、困ったことに、この維新の攻撃にもっとも敏感に反応したのは、自民党大阪府連の、どちらかというと政治経歴の浅い、右派色や安倍依存体質の強い一部の国会議員たちだったのである。ネット上で自民党支持者を名乗る維新活動家らからの攻撃に耐えかねたある国会議員は「共産党はストーカー」「こちらからはお断り」などと主張した。共産党の自主的な支援によって、柳本・小西両氏が政策を変えるわけでもないのに、どこの世界に府民からの支持を自分から切り捨てる陣営スタッフがいるのだろうか。いまや維新の候補ですら野党各党の支持者からの票を得ている時代である。

 自民党府連の迷走を象徴的に示したのが、選挙中に公表したネット用ポスターだ。それは安倍晋三首相の顔写真を添えて「自共共闘? 維共共闘の間違いでしょ!」と訴える内容であった。不見識としかいいようがなく、小西・柳本両氏への共感を広げるどころか、逆に維新サイドに嘲笑され、あっという間に大炎上を引き起こすことになった。即座にネットから消したとみられるが、各方面に不快感・不信感を残した上に、画像を保存していた維新側には馬鹿にされ続け、みごとに候補者の足を引っ張ったのである。

 2015年の前回ダブル選のときもそうだったが、反維新といっても、自民党府連には味方のいちばん奥に敵がいるような状態にある。それは、自民党である限り、公認申請でも推薦申請でも党本部からの応援でも、最奥には、橋下氏や松井氏と親しい安倍首相や菅官房長官が控えているという問題である。そして大阪市民・府民のために働くという立場に立ちきれない国会議員たちは、つねに安倍首相の立場と大阪の立場との間をウロウロしているのである。府連の必死の懇願に応じたのか、最近は安倍首相も橋下氏とは少し会食を控えている。政治家としての人間的なつながりもあるであろう自民党府連の立場にも心を砕いているというのも事実かもしれない。しかし、それは当たり前のことであり、これまでが異常なのだ。それに、松井氏とべったりと言われている菅長官のほうはどうなのか。そして、安倍首相は、維新をまともに批判したことがはたしてあるのだろうか。候補者擁立も自民党が主体になる限り、こうした混乱を常にかかえることになる。

 また、私の周りの野党支持者のなかには、「維新政治からの転換といっても、転換する先が自民党の候補ではね」という声もあった。嫌われているという意味では自民党も同じなのである。

 大阪に本当に求められている候補者は反安倍を明確にする候補者だと言いたいわけではない。そうではなく、どんなときでも大阪府民・市民全体の利益を貫ける候補者が必要だと言っているのである。大阪のために、国にたいしても協力すべきは協力し、必要なら堂々と物を言う。そんな候補者を育て、大阪府民・大阪市民にとって本当に必要な政策をつくる、市民共同のポスト維新政治への準備体制づくりが急務となっているのである。

 大阪において維新の支持が定着している背景について、維新が、少なからぬ有権者に、政党として大阪を代表し大阪に利益をもたらす存在とみなされていることがあるのではないか、と分析する人がいる。そして、それは有権者の合理的な選択だ、とも。合理的!? しかし、それは十分かつ客観的な情報にもとづいているのだろうか。

 違うのだとしたら、われわれには、真に大阪府市民の共通利益を代表し、維新にも国にも堂々と立ち向かえる候補が必要である。なんでも国と対決しろといっているわけではない。重要なのは、国とも維新とも府民・市民の立場で渡りあえることである。

 反対に、維新が国会でやっていること何か。大きな批判と不安を巻き起こしている水道民営化促進法案やカジノ関連法案など反国民的な法案に賛成し、その御褒美に、明らかにIR型カジノと一体化した大阪万博誘致などのアメをもらう。しかし、IR型カジノというものが、海外の事業者が、大阪から富を吸い上げるものにすぎないとしたら、どこが府民にためになるのであろうか。

維新は、安倍官邸が、自らが主導する改憲のために飼っているペットにすぎないのである。維新が一度目の都構想で行き詰ったとき、あるいはまた落ち目と言われてきた2018年、安倍官邸は、公明党住民投票賛成や、カジノ万博誘致への協力など幾度となく餌を与え、その復活を助けてきた。しかしこのペットはモンスターでもある。このことがいったい何を引き起こすか、心ある自民党本部関係者にも真剣に考えてほしいと思う。

維新は反維新には対案はないという。そしてそのイメージをふりまいている。たしかに維新政治とは違う「もう一つの大阪」の未来を目指すグループにはもっとビジョンを具体化する必要があるだろう。しかし、小西氏の掲げた「成長をわかち合える大阪」や、府と43市町村が連携してつくる「オール大阪の成長戦略」、柳本氏の掲げた「SDGs(持続可能な開発目標)」「誰一人孤立させない」街づくりなどは、維新には示せないもう一つの大阪の萌芽をはっきりと示していた。大阪の本当の大問題である「子どもの貧困問題に真正面から向き合う」という両氏の姿勢にもそれはあらわれている。

これらをさらに発展させ、志ある市民・府民の共同をつくる主役は、大阪を愛する私たち一人ひとりである。

 

加えて、小西・柳本両氏の敗因の一つに、維新以外の勢力の応援で市政を継続させてきた竹山修身堺市長に不可解極まりない政治資金問題が発生したことの影響は少なくない。維新自身、数え切れないほどの政治資金問題やスキャンダルを引き起こしてきたが、維新は竹山氏の問題を反維新勢力へのネガディブキャンペーンに徹底的に活用した。小西・柳本両氏にはまったく関係のないことだったのに、有権者の判断には大きく影響したといわざるをえない。堺市長が中身において比較的まともな市政を進めていたとしても、こんなことで府民全体から不信を持たれていてはどうにもならない。府民・市民として求めるのは、維新・反維新にかかわらず、こうした資金問題に厳しい姿勢である。

 

府外の友人から「橋下氏が政界を引退してから、もう4年近く経つのに、なぜ大阪では維新が勝ち続けるのか」という質問を受けることがある。この問いの答えは、橋下氏が、その絶頂期に維新政治を恒久化させるために行った体制づくりにもあると思う。

それは、▽定数2割削減に伴う府議会の少選挙区化による少数野党の排除、▽職員基本条例や教員基本条例、公務の民営化などによる公務員労組の無効化、▽維新のシンクタンクとしても活用できる府市統合機構の整備、▽知事・市長の登退庁ぶら下がり・会見の定例化と報道の従順化、▽統一的な司令部をもち構成員がブラック企業の社員のようにノルマをこなす統制のとれたマシーン政党と各議員による旧自民党のような地道な地盤づくりの徹底―などである。

これにより、例えばこの11年間で、大阪市会に18人いた民主党議員は民主党系も含めてゼロに、府会でも10議席あった共産党府議団が2議席にまで落ち込んでいる。(後編に続く)